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高左右隆之 takayuki takaso

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【祖父の写真をかざす弘之氏 hiroyuki showing his grandfather】
高左右隆之と聞いても、ほとんどの人は知らないだろうが、
明治末期から大正初期にかけて、自作の飛行機で空を飛んだ民間の飛行家だ。
もちろん私も全く知らなかった。
その高左右隆之が、カフェギャラリー閑花のオーナー弘之さんの祖父だったなんて知る由もない。
初めは、閑花に掛けてあった写真の男性を、誰、と聞いたことから。
1997年の「航空情報」という雑誌のコピーを頂いて読んだら、
その破天荒な冒険と言うか、活躍と言ったらいいか、小説を読むような面白さ。
かいつまんで書くと、1908年(明治41年)21歳で単身シアトルへ行って、
そのまま、アメリカで飛行機を作ってしまう、それも独学で。
そして、シアトル州サウスタコマ平原でそれを操縦、アメリカで名を馳せる。
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【航空情報の写真から from aeronautic information】
こんな彼を日本が放っておくわけがない。
1993年、27 歳になった隆之は自作の飛行機、高左右4号を持って帰国。
それからは、姫路、大阪、などで飛行大会に出場し、
満州、朝鮮、台湾をまわり、命がけで飛行を何万人に見せることに。
戦争に向かっている日本軍に利用されそうな危うさも。
このまま飛行機に関わっていれば、日本に置ける民間航空の草分けになったかもしれない、と思うけれど、そうはいかない。
1919年、彼は33歳のとき、今後いっさい飛行機には手を触れないと言って辞めてしまうのだ。

祖父の話って、NHKの朝ドラになりそうでしょうと、弘之さんは笑った。
私は、サン・テグジュペリの「夜間飛行」を思い出していた。
初期の飛行機には、男たちがワクワクと胸を焦がしたんだなあ。
by amanedo_g | 2013-02-23 20:57 | diary ヒロミ日記
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